私事ですが、ご報告です。
(長文です)
2021年3月13日(土)の朝、
父が人生の幕を閉じました。85歳でした。
父が人生の幕を閉じました。85歳でした。
思い返せば、2019年8月29日(木)の
午前2時30分頃、父から「具合が悪い」
と電話がありました。
その時にゴンと音がし、電話が切れたので、
転倒した可能性が高いと思い、
急いで119番に電話。
父は救急車でそのまま病院へ
救急搬送されました。
検査の結果、右肺腺癌(ステージⅣ)と
転移性脳腫瘍だとわかりました。
脳腫瘍に対してはガンマナイフ治療を、
肺腺癌には免疫療法をスタート。
入院や通院という形で、
今できる治療を1年以上続けてきました。
2020年11月――
抗がん剤治療による口内炎の副作用が
ひどくなり、父は「もういいよな?」と
治療を止めることを決断。
父は医師に「余命はどのくらいですか?」
と聞き、余命2~3か月の可能性だと言われました。
まだ自分で近所へ買い物に行けるような体調でしたが、
訪問診療を始めることを希望。
ケアマネジャーさんからは訪問看護を勧められ、
これまで続けてきた訪問介護に加えて、
年末には訪問診療、訪問看護の体制が整いました。
その後、1月23日(土)の夜中に
父から電話があり、
慌てて夫と一緒に父の家へ。
その日の緊急性はなかったものの、
在宅での酸素療法が始まりました。
体を起こすと息苦しくなることが増え、
看護師さんから、一度緩和ケアがある
病院へ入院してはどうかと勧められ、
入院することになりました。
米国に住む兄と兄のパートナーは
12月に日本に来てくれていたのですが、
もう一度駆けつけてくれました。
コロナの関係で、緩和ケアの面会は
1日1人(家族のみ)、15分以内。
時間があっという間に過ぎていきました。
穏やかな雰囲気の病棟でしたが、
父は酸素吸入の量が増え、
せん妄(幻覚や妄想などの意識障害)が
激しくなっていきました。
最悪の場合2~3日ということも
あり得ると聞き、覚悟をして
過ごしていました。
入院して1週間後。
せん妄がありながらも「家に帰りたい」と
父から電話があったため、訪問診療、
訪問看護、訪問介護の方々と相談し、
いったん家へ帰り、10日後に病院へ戻ることになりました。
兄が父と一緒に暮らし、私は毎日通う
という形で新たな生活が始まりました。
入院中は果物とアボカドしか
食べなかったのですが、
帰宅してからは徐々に食欲も出てきて、
激しかったせん妄も一時少なくなりました。
父はずっとベッドにいる状態でしたが、
時々、冗談や笑顔も出るようになりました。
父が穏やかに過ごしているので、
「このまま家にいた方が良いね。
お父さんを看取るまで日本にいるよ」と
兄は言ってくれました。
本当に心優しい兄です。
看護師さんから勧められ
訪問入浴が始まり、気持ちよさそうに
お風呂に入れてもらう父の姿を見ると、
胸が一杯になりました。
大好きな大福やきんつばを食べると、
「幸せだな~」といって笑うこともありました。
そして、覚悟をしていた2月が終わり・・・
私の3月2日の誕生日パーティー(半世紀祝い)を
父の家で行なうことができました。
兄と兄のパートナーが企画してくれた
のですが、奇跡のような時間でした。
しかし、翌週の3月8日(月)――
「SAT(酸素飽和度)が70にまで
下がっている」という電話を兄から受け、
コーチング中でしたが中断。
慌てて父の家へ向かいました。
「最期まで父の家にいる」ことを決め、
ここ2週間の仕事は、延期やキャンセルを
させていただきました。
医師から誤嚥の恐れがあるため、
もう食事は難しいことを告げられ、
苦しまないように薬を継続的に注入して
いくことになりました。
翌朝、呼吸苦による壮絶な時間があった後、
父が一生懸命何かを伝えようと
していることに気付きました。
父の口元に耳を近づけると、
「子どもが...子どもがすりむいてかわいそう」
そう言った後に、
「ともちゃん、バイバイ」
「タータン、バイバイ」
というお別れの言葉を聞くことができました。
続けて、あごを左へ動かす父。
兄が「智子、手じゃない?」と言ったので、
兄が右手を、私が左手を握り、
「ありがとう」と何度も何度も御礼の言葉を伝えました。
父はニンマリ笑って、涙を浮かべていました。
その日の夕方から夜中にかけて、
兄は痰の吸引を続け、私と兄のパートナーは
それをサポートする時間が続きました。
翌日から、父は大きな呼吸をしながら、
薬で眠り続けました。
そんな中でも看護師さんが来てくださって、
清拭や口腔ケア、ひげそりなどをおこない、
腫瘍熱が出た時には、頭や腋のアイシングを続けていました。
しかし、もう父と話すことはありませんでした。
3月13日(土)の朝――
「あーでもない、こーでもない」と
言いながら兄と私で朝食を作っていて、
さあ食べようと思った時に、
ふと気になりリビングのベッドで寝ている父を見ると、
もう息をしていませんでした。
(頸動脈に拍動は感じました...)
父の車の中でよく聴いていた
サラ・ブライトマンの
Time to say Goodbyeを流し、
しばし静かな時を過ごしました。
・
・
父は「巨人」と「車の運転」と
「ゴルフ」が大好きな人でした。
気が短くて、気難しいところもあって、
「余計なことするな!」と何度も怒鳴られましたが、
それでいてひょうきんで、愛深き人でした。
"企業戦士"で、ほとんど家にいませんでしたが、
日曜日のお昼にはラーメンを作ってくれたり、
小さい頃はキャッチボールやバドミントンを
して遊んでくれました。
旅行会社の役員をしていましたが、
母が病気になったことで、
サラリーマン人生を途中で断念し、
母の介護をしてくれました。
私が20代半ばで婚約破棄をして、
つらくて家に帰れなかった時、
「親友の家へ行ってくる」と
公衆電話から電話をかけると、
「そこで待ってろ」と言って電話を切り、
車を飛ばしてやって来て、
駅の階段を駆けのぼり、
私が乗ろうとしていた電車に
飛び込んできてくれました。
長男を出産した時には、
「亡くなったお母さんのかわり」と
言いながら、お昼にエリンギ入りの
うどんを何度も作ってくれました。
東日本大震災の時には、仕事の帰り、
妊娠6か月のお腹を抱えて
品川から横浜へ向かって歩く私を、
数時間かけて大井町消防署まで
車で迎えに来てくれました。
帰りが遅くなる仕事や出張の時には、
いつも子どもたちの面倒を見てくれました。
「No.2になれ」
(人をサポートする人となれ)
「(タオルを使った後など)
次の人のことをいつも考えなさい」
という教えは、今でも私の中に息づいています。
言葉の表現はうまくなかったけれど、
本当に愛ある人でした。
葬儀は父の希望で家族葬に。
すべて終わってから、懇意にしていただいた方々に
連絡して欲しいとリストを渡され、
兄と一緒に進めてきました。
ここ数日、お世話になった方々から、
電話で父の思い出話を聞くことができました。
・
・
これまで仕事の日程変更やキャンセルを
ご了承くだった方々、
気持ちを寄せてくださった皆様、
本当にありがとうございました。
心から感謝しています。
お問い合わせをいただいたのですが、
誠に勝手ながら御香典やお花はご辞退申し上げます。
どうしても...と言う方は、
もしよろしければそのお気持ちを、
ご家族など大切な方、思いのあるNGOやNPO等へ
届けていただけたら幸いです。
(すでに送ってくださった方々、ご連絡が遅くなってしまい
申し訳ありません。ありがたく頂戴しました)
お父さん、天国でお母さんに
会えたでしょうか?
では、またあの世で。